日刊OkiMag

沖縄の民話

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 今回は全身鉄でできた「ギミンノヘイカ」こと「チョーフグン親方」のお話。

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■チョーフグン親方    【金武町】

 昔、金武(きん)間切りの並里(現在の金武町)に美しい娘がおりました。その娘を巡視に来られた首里の王が見染めて、娘はまもなく身籠もりました。しかし、百姓の娘が王の子を生めるわけもなく、悲しみに涙していました。

 娘は鉄屑(てつくず)を煎じて、お腹の子が流れるように毎日飲み続けました。ところが、お腹の子は流れるどころか、月が満ちて生まれる気配もありませんでした。ある日、お腹の中から声が聞こえてきました。

 「私を生むとお母さんの命はありません。それでも私を生みますか。」それを聞いた娘は「私は死んでもいいから、生まれてきておくれ。」と言いました。

 お腹の子は、母親の命と引き替えにそのお腹を引き裂いて生まれてきました。 成長すると大変な力持ちになったその子は、薪(たきぎ)をとりにやると、道具を使わないで木を根こそぎ引き抜くほどでした。

 金武の億首橋(おくくびばし)近くのおよそ一万坪もあるヒルギ田原は、ものの半日で耕し、村人を驚かせました。また、鍬(くわ)を一振りあげたかと思うと、たちまちのうちに森となりました。ヒルギ田原にある一鍬森(ちゅ  くぇーむい)は、その時にできたものだと言われています。

 武術にも優れたその子は、村人から「ギミンノヘイカ」と呼ば慕われるようになりました。

 1589年から1620年、尚寧(しょうねい)が王として在位していた頃薩摩が琉球を攻めてきました。金武ではギミンノヘイカが総指揮官となり、何億人もの敵の首を切り落としたということで、敵を待ち受けた地は億首と言われるようになりました。そして、斬りつけた薩摩の兵を葬った場所は大和人墓(やまとんちゅうばか)と呼ばれ、億首から西の方にあります。近くには、川があり水が枯れることなく滔々(とうとう)と流れています。

 薩摩軍は、どうにかギミンノヘイカを倒す手はないものかと思案にくれていましたが、床屋に耳打ちをして一計を案じました。気持ちよさそうに、髭を剃らせているギミンノヘイカの喉元を床屋が小刀で掻き切りました。「お主は。」ギミンノヘイカは、苦しみもがきながらも最後の力を振り絞って床屋の両股を引き裂いて、一方の片足を東の海へ、もう片方の足を西の  海に投げつけました。沖縄の東と西の海がゴウゴウ鳴るのは、彼の怒りの声だと言われています。

 ギミンノヘイカが死んだので、すっかり安心した薩摩の兵は、再び沖縄を攻めてきました。村人は、ギミンノヘイカの死体を薩摩軍によく見えるように丘の上に立てました。それを見た薩摩の兵は、「死んだはずのギミンノヘイカはまだ生きている。おい、ハチャグミ(餅菓子)を食べてずっと睨んでいるぞ。わしらは、このままでは生きてはおれんぞ。」と薩摩の兵は一人残らず皆、自ら命を絶ってしまいました。ハチャグミ(餅菓子)に見えたのは死んだギミンノヘイカの口から湧いていた蛆虫(うじむし)だったのです。

 それから、ギミンノヘイカをたたえるかのように「生きて千人、死して千人。」という言葉が生まれました。そのギミンノヘイカの墓は、ヒルギ田の東の森にあり、毎年、清明祭(シーミー)には、その子孫が拝んでいるということです。

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Copyright (C) 1999 沖縄まが人


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