日刊OkiMag

沖縄の民話
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/<< 【連載】沖縄の民話 >>_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

  今回は、実在の人物で、琉球王国時代の薩摩侵攻時、三司官であった謝名
 親方(じゃなうぇーかた)についてのお話。

              ---------------------☆--------------------

■謝名親方(じゃなうぇーかた)    【那覇市】

  慶長14年(1609年)薩摩の島津家久は、樺山久高を総大将に平田増宗を
 副将として、兵3000余人、船100隻で琉球に侵攻しました。

  1650年に羽地朝秀(向象賢:しょうしょうけん)によって編纂(へんさん、
 編集)された琉球の正史「中山世鑑」(ちゅうざんせかん)によると、薩摩
 の琉球侵攻は、時の王である尚寧(しょうねい)が謝名親方(じゃなうぇー
 かた)を重用して事大の誠を失ったためとあります。

  また、「討琉球詩並序」では、島津の附庸国(ふようこく)であった琉球
 が号令に従わないので、使者二人を琉球に遣わすが、三司官の一人謝名親方
 が使者を追い返したので、やむなく数千の兵を送り琉球を討ったとあります。

  三司官の一人として尚寧王に仕えた謝名親方(鄭迥:ていどう)は、久米
 村(那覇市久米町)の出身で字が利山(りざん)で、身の丈六尺ばかりの色
 の黒い男でありました。

  1565年、官生となり、渡明。翌年南京の国子監に入学、1572年に帰国しま
 した。そして1606年に三司官(さんしかん)に就任しました。

  その裏には、三司官城間盛久を讒言(ざんげん、事実を曲げいつわって人
 を悪くいうこと)して百姓に貶(おとし)め、三司官にのぼったともいわれ
 て、人民からは過重の租税をとりたてたとも言います。また、次のような伝
 えも残っています。

  薩摩から戦(いくさ)が寄せてきたので、謝名親方は術で支那の方へ手紙
 を送りました。手紙は支那の城内に落ちたが、平川という人が見つけました。
 しかし、王様に見せれば騒動になるからと平川は見せなかったといいます。
 沖縄では、謝名親方が手紙を送っているから、支那の方から黄色軍艦が助け
 に来ると今か今かと待っていました。

  そうこうしているうちに、薩摩軍が山原(やんばる)の方に攻め寄せてき
 ました。山原の村びとは鉄砲を知らなかったので、「棒ぬ先から火ぬ出じてぃ
 私が鼻や射りぷがち。」(棒の先から、火が出て私の鼻は穴あいた。)と大
 騒動になりました。

  また、嘉手納(かでな)の天川坂(あまかわびら)では、お粥を炊いて薩
 摩の兵を火傷させようと流したが薩摩の兵はそのお粥を食べて元気になり、
 逆に攻められたということです。

  抵抗空しく、支那からの援軍も来ず、琉球は薩摩の軍門に下りました。
 時の御主加那志前(うすがなしーめぇ、王様)は薩摩へ送られ、謝名親方は
 そのお供をしました。

  お供の謝名親方に薩摩の家来は、「薩摩の殿様と琉球の王とで誰が身分は
 上か。」と聞くので、謝名親方は、「いくら小国でも琉球の王と生まれたか
 らには王が上である。」と答えました。

  「お主、何をぬかす。小さな島の王よりも薩摩の殿様の方が身分は上で
 ごわす。」「なら、早く頭を下げた者が身分が下ということだな。どちらが
 早いかな」と言った。

  すると、謝名親方は術をもって薩摩の殿様にお辞儀をさせました。薩摩の
 殿様がお辞儀をしたので、琉球の王様もお辞儀をしました。

  その様子を見ていた支那の人は、「あの人はなんという方か。」と尋ねて
 きました。謝名親方だと答えると、「ああ、謝名親方とおっしゃる人か。支
 那にも武勇に長けた者はいるが、術を使うとなると謝名親方に勝る者はいな
 いな。」と言いました。

  これを聞いた薩摩の人は、すぐに謝名親方を縄にうちました。謝名親方は、
 油湯に入れられようとしましたが、「死ぬ前に、せめて琉球の武勇、空手を
 お目にかけましょう。」と言って、縄を解いてもらい空手を披露しました。

  謝名親方は、頭だっている二人の者を脇に挟み、油鍋に飛び込みました。
 煮えたぎった鍋の中で三人とも左に周り始め、謝名親方は最後を遂げたとい
 うことです。

  その時、謝名親方と薩摩の二人の武士の巴になって油鍋で廻った形に因んで
 琉球王家の左御紋が決められたということです。

  文献によると、二年間も薩摩に捕われた尚寧王(しょうねいおう)が帰国
 する1611年9月、薩摩は琉球に対する政策を15条にまとめ調印を求めました。
 この15条の中には、琉球は薩摩藩が許さない商人とは取り引きしてはならず
 薩摩藩の命令の他は中国との貿易をしてはならない、また琉球から他国に商
 船を一切だしてはならない、など様々な拘束がありました。

  謝名親方ただ一人が調印を拒んだので、9月19日の午後4時に打ち首にされ
 たということです。

☆★☆★☆★☆★☆★☆★≪ お願いはじまり ≫★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
当民話は、沖縄国際大学文学部 遠藤庄治教授のご厚意により掲載させて頂いてお
ります。その転載・複写、一部引用等の二次利用は、教育目的、学術的な研究目的、
啓蒙的な意義のある活動(営利を目的としないもの) において自由に可能です。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★≪ お願いおわり ≫★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

沖縄の民話を許可なく無断転載することを禁じます。
Copyright (C) 1999 沖縄まが人


≪戻る