日刊OkiMag

沖縄の民話
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 今回は、藁しべ長者についてのお話しです。

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■藁しべ長者    【北中城村】

  昔、伊平屋島に八つの倉を持つ屋倉大主(やぐらうふすー)という人がい
 ました。伊平屋島が飢饉になった時、屋倉大主は飢饉が長く続くと思ったの
 で、少しづつ人々に食べ物を分け与えたが、それを不満に思う人が屋倉大主
 を殺そうとしました。

  そこで、屋倉大主は伊平屋島を抜け出して、沖縄本島・南部の佐敷に逃れ
 てきました。

  それから毎日、屋倉大主は投網を打って魚を捕り、沢山捕れた魚を家から
 家へ廻り、ただで配っていました。
  すると与那原の上に屋敷がある按司(あじ)の母と娘が、
 「何回もただで魚を置いて行くのはどんな人だろう。」と噂をしていました
 が、やがてこの按司の娘は、屋倉大主と親しくなり、娘は身籠りました。

 「このことがお父さんに知られたら、打ち首にされる。」と思った娘は、
 こっそりと屋敷を出ると、足が棒になるほど歩いて住む所を捜して、佐敷の
 上の所まで来て、やっと山羊小屋を貸してもらいました。

  しかし、そこにしばらく住んでいてお産が近づくと、山羊小屋の主人が
 やって来て「葬式事は悪いものをみんな持っていってくれると言うが、お産
 では生まれてくる子供がいいものを全部持っていってしまうと言うよ。
 だから、すぐ出て行ってくれ。」と言いました。

  娘は山羊小屋を貸してもらったお礼を言って、そこを出るともっと山の上
 の方へ行って、お産ができる所を探しました。
  ようやく洞窟を見つけた娘は、そこに住んでいるうちに元気な男の子を産
 みました。

  娘はお母さんにはなったが、食べる物がないので、自分の家に行ってお母
 さんに助けをもらおうと思い、赤ちゃんを洞窟に残して、自分の家まで出か
 けて行きました。

  若いお母さんが洞窟を出て行くとすぐに犬がやって来て、昼間は犬が赤ち
 ゃんにお乳をやり、日暮れには鳩がやって来て赤ちゃんを抱いて寝かせてい
 ました。
  家に帰っても若いお母さんは米一粒も分けてはもらえなかったので、赤ち
 ゃんのいる洞窟に急いで帰りました。

  やがて、赤ちゃんを抱いた若いお母さんは家々を廻って物乞いをして暮ら
 すようになりました。
  赤ちゃんが少し大きくなると、赤ちゃんをおんぶして日雇いの仕事をして
 働きました。稲刈りの頃には、田んぼで手伝いをして稲穂を貰ってお粥を作
 って食べました。

  子供が八つか九つになった時、お母さんは重い病気になりました。
  お母さんは死ぬ前に自分の子供に一束の藁(わら)を見せて、
 「これは私の形見だからよく考えて使うんだよ。」と渡して亡くなりました。

  一人ぼっちになった子供は藁を担いで仕事を見つけるために洞窟を出て行
 きました。この子供は身体の丈夫な子供でした。
  村に入って味噌屋の前に来ると、味噌屋の人は味噌を包んだ芭蕉の葉を縛
 る藁がなくて困っていたので、子供を呼び止めました。
 「この藁は何に使うのかい。よかったら譲ってくれないか。」と言いました。
  子供は、「これはお母さんが残してくれた宝物だから誰にもやれないよ。」
 と断りました。
 「それなら、お前の藁とこの味噌とを換えてくれないか。」と頼んだので、
 子供は藁と味噌とを交換しました。

  子供は味噌の包みを抱えて村の中を歩いて行くと鍋を修理するナービナクー
 (鋳掛け屋)のふいごの音が聞こえてきました。
  ナービナクーは汗を拭き拭き、「金はいい具合に溶けているが、味噌が無く
 ては、どうしようもないなぁ。」と言っていました。
  そこを子供が味噌の包みを持って通ったので、ナービナクーは、
 「その味噌を分けてくれないか。」と言いました。
  子供は、「これはお母さんの形見だから譲ることはできません。」
 と断りました。
  するとナービナクーは鋼鉄の固まりを持って来て
 「それならこれと換えてくれ。」と言いました。
  子供は考えついたことがあったので、味噌と鋼鉄の固まりを交換しました。

  それから、子供は太刀を作ってくれる鍛冶屋(かじや)を探して歩き、
 前打ちとして働いてくれるなら、望みの太刀を作っても良いと言う鍛冶屋に
 出会うことができました。
  子供は前打ちの仕事を三年ほどしましたが、鍛冶屋は太刀を作ってくれま
 せんでした。その間に子供は鍛冶屋の腕も上げたので、暇を見つけては自分
 で太刀を作り始めました。そして、それから五年ほど後、子供は頼もしい若
 者になり、見事な太刀を作りあげました。

  ある日のこと、佐敷に唐の船が来て馬天港の沖で錨(いかり)を下ろして
 いたので、若者は近所の子供達を誘いサバニに乗って、唐の船を目ざして漕
 ぎ出しました。

  すると、海の中にはサバニほどの大鮫が子供を狙ってその船に近付いて来
 ました。それを見た唐船の船員が「おーい、大鮫が子供達を狙っているぞ。
 油断するなよ。」と叫びました。

  しかし、大鮫はそのサバニに近付くと、その度にさっと向きを変えました。
  それは若者が自分で作った太刀を抜いてサバニに立てておいたので、その
 太刀に太陽の光りが当たってキラキラ光っていたからでした。

  その太刀の眩しさには唐船の船員たちも驚き、唐船の船長は若者の持って
 いる太刀を欲しがって、「船に積んでいる金の屏風とたくさんの鉄板をやる
 から、その太刀と交換してくれないか。」と言いました。

  若者が承知すると、唐船の船員が金の屏風とたくさんの鉄板を馬天港の桟
 橋まで運んでくれました。

  鉄板を鍛冶屋に運んだ若者は、それで鍬(くわ)を作ってもらい、出来あ
 がった半分はお礼として鍛冶屋に与え、残った半分は、若者が百姓を一軒一
 軒廻って与え、それを使ってもらいました。

  すると、それまでの木の鍬とは違って、鉄の鍬なら仕事がはかどるし、作
 物も沢山できるようになったので、百姓に鉄の鍬を与えているこの若者は評
 判になり、背が低かったことから、佐敷の小按司(こあじ)と呼ばれるよう
 になりました。

  その当時勢力をふるっていた南山王は、近頃百姓に鉄の鍬を配っている佐
 敷の小按司が金の屏風を持っているという話を聞き、家来を佐敷の小按司の
 家に遣わし、その金の屏風を譲るように交渉させました。

  佐敷の小按司は「嘉手志(かでし)ガーとなら交換してもいいよ。」と返
 事したので、南山王は金の屏風と南山で最も多い水量を持つ嘉手志ガーを交
 換しました。

  嘉手志ガーを貰った佐敷の小按司は、嘉手志ガーの傍らに、「佐敷の小按
 司の味方をするものだけがこの嘉手志ガーを使って良い。」という立て札を
 立てました。

  この立て札を見た人たちは、次々に佐敷の小按司の家来になったので、や
 がて佐敷の小按司は南山王を滅ぼして尚巴志王(しょうはっしおう)という
 王になり、琉球を統一しました。

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