日刊OkiMag

沖縄の民話
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 最終回は、ちょっと長いですが、桜の開花で日本で一番早い今帰仁城にまつ
 わるお話しです。

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◆今帰仁城の落城  【今帰仁村】

  今から一千年の昔、人々が国中に広がり始めるようになると人は城を構え、
 争うようになりました。
  琉球も、南山(南山)、中山(ちゅうざん)、北山(ほくざん)と三つの
 大きな城が築かれ、争うようになりました。

  昔、天孫氏の神々が造ったと伝える北の北山城はクバの嶽(たき)を後ろ
 にし、天つぎのイビガナシを守護神として日夜安泰にくらしていましたが、
 時がたつにつれ、人々は領地の森や林を切り開いて田や畑を作り村々が増え、
 北山城も手狭になってきました。
  その上、群雄も所々に起こって各々が城を構え互いに相争うことが多く、
 戦が絶えることがなかったので、今帰仁城も、険阻(けんそ)な攻めにくい
 城であったが、強固な石垣をもって城郭を拡張することにしました。

  そこで、領地の人々を集めて工事に取り掛かかりましたが、城壁にする堅
 い黒石を削ることが難しく、工事をする人達は大変な苦労をしていました。

  ちょうどその頃、北谷村(ちゃたんむら)に不思議なことが起こりました。
  北谷村に一人の子供の成長を楽しみに、侘びしく暮らしているけなげな婦
 人がおり、ある日の昼下がり、その婦人が近くの田んぼに田芋を取りに、
 幼い子を連れて行くと、初めは母親が田芋を掘っているのをおとなしく見て
 いた幼い子が、夕もやが立ち込めて、うす寒くなるとあぜ道に残された寂し
 さと、空腹に耐え切れず、たまらず泣き出しました。

  母親が、「もうすぐだから、辛抱しなさい。」と言っても泣きやみません
 でした。とうとう母親も田芋を掘る手を休めて「こっちへまわっておいで。」
 と言いながら、手に持っていた芋の根切りに使っていた包丁をかたずけるつ
 もりで振り回したとたん、どうしたはずみか、その幼い子の体に触れてもい
 ないのに、その包丁で幼子の体は真っ二つに切られ倒れてしまいました。

  これを見た母親は、驚きのあまりしばらく田んぼの中に立ちすくみ、
 やがて、我に返って子供の名を呼び続けて気が狂わんばかりに泣き叫んだが、
 どうする事もできませんでした。

  この魔力ある怪奇な刃物は北谷ナーチラーと呼ばれ、噂はたちまちに世間
 に広がりました。
  その頃、今帰仁城では、城壁を造る人達が石を割るのに大変難儀していると
 聞いた北谷の村人達がこの妖刀、北谷ナーチラーを今帰仁城に献上しました。
  そこで、今帰仁城では早速この北谷ナーチラーの切れ味を試してみると、
 どんな堅い石でも切ることが出来たので、この刀で堅い黒石を切ったり削った
 りして、思ったより早く立派な城壁を造ることができました。
  
  今帰仁城の石垣に、こまかい鑿(のみ)の跡がないのはこの北谷ナーチラー
 で石を断ち切ったからだと伝えられ、今も尚家の秘宝として保存されていると
 言うことです。

  ところで、今からおよそ七百年ほど前の中北山のころ、今帰仁城の南側に
 志慶真村(しげまむら)という村があり、志慶真村の島袋という家に乙樽
 (おとだる)という美くしい女性がおりました。
  乙樽はその黒髪が地に届くほどの長さで、絶世の美女と讃えられ、神様の
 ように気高く、美しいので今帰仁御神(うかみ)とも言われるようになり
 ました。

  時の権力者の今帰仁世の主はこの美女、乙樽を城内に召し寄せ、側室と
 するになり、乙樽もそれを名誉と思い、志慶真村の村人達もこの村出身の
 者が、時の主の目に留まり、城内に召抱えられたと、その喜びは大変なもの
 でありました。

  乙樽は、今帰仁世の主の寵愛を受け、何不自由なく幸せに過ごしていまし
 たが、今帰仁世の主の正室の王妃に妊娠の兆候があり、60歳になっていた
 今帰仁世の主は、それまで、後継ぎの子供がなく喜びはしたものの、病に倒
 れてしまいました。

  そこで、近臣達を枕元に呼び、「私のこの度の病は治りそうもない。
 私には後継ぎがなかったが、幸い王妃が妊娠したようだ。もし生まれた子が
 男であるなら、皆でこの子を助けて、私の後を継がせて欲しい。女であれば、
 優秀な徳のある者を選び婿養子として、私の後を継がせてくれ。」と遺言し、
 亡くなりました。

  家臣達をはじめ、国中の人々も今帰仁世の主の死を悲しんだが、正室の王
 妃の出産が男の子であるようにと願い祈っていました。
  その中でも、乙樽は側室ながら、城内の守護神の前に雨の日も風の日も
 「王妃が、安産するように、どうか男の子でありますように。」と祈り続け
 ました。
  やがて、生まれたのが玉のような男の子であり、国中の人々の喜びはさる
 ことながら、乙樽の喜びは天にも上らんばかりで、母子の世話を一手に引き
 受け、生まれたばかりの若按司(わかあじ)を我が子のようにかわいがり、
 暇さえあれば、抱きあやしておりました。

  今帰仁城で後継ぎが生まれた祝宴が城内で開かれている時、突然武士達が
 城内に雪崩込んできました。
  それは、日ごろから跡目を狙っていた本部大主(もとぶうふすー)であり
 ました。思いがけなく跡目の男子が今帰仁世の主に生まれ、その子が成長す
 る前に謀反を起こしたのでした。
  この時、城内の家臣達は祝宴の宴に酔いしれ、武器を取って戦ういとまも
 なかったが、ただ一人運天の子(うんてんのすー)と言う武士だけは、大庭
 の近くで矢種が尽きるまで奮戦しましたが、家臣達は、たちまちに斬りたて
 られて逃げ場を失った臣下や女達はおろおろと右往左往するばかりでありま
 した。

  この時、本部大主の策略で今帰仁城きっての武将の潮平大主(すんじゃう
 ふすー)は、今帰仁より離れた国頭で謀反の動きあるという事で討伐に派遣
 されていました。
  しかし、途中で潮平大主が腑に落ちなく胸騒ぎを感じたので、部下を励ま
 して今帰仁城にとってかえしてきました。ようやく城外まで辿り着いて見る
 と、城内からは鬨(とき)の声や怒号、泣き叫ぶ悲鳴が聞こえてきました。

  潮平大主は城外に馬を乗り捨て、裏門から廻って見ると、謀反を起こした
 本部大主が攻め立てている最中でした。
  裏門から城内に入った潮平大主達は、時を移さず、王妃の元へ駆けつけ、
 運天の子や部下達が敵を食い止めている間に、若按司と王妃と乙樽らを連れ
 て城の外へ通じる志慶真門の近くまで逃げ延びてきました。
 しかし、王妃は、「私は、産後で逃げることが出来ない。乙樽と貴方ふたり
 で、この子を守り、逃げて欲しい。」と言い城の後ろを流れる志慶真川
 (しげまがわ)へ身を投げてしまいました。

  潮平大主は若按司をおぶって、乙樽をはげましながら、ようやくクバの
 御嶽(うたき)の中にある岩屋に逃れ、ひとまずここで一夜を明かしました。
  そこは城の近くにあり、いつまでもそこにいる訳もいかず、恩納の山田大主
 (やまだうふすー)に若按司を匿って貰おうと、夜にまぎれて山田村に向かい
 ました。
  途中、若按司が乳恋しさに泣き叫び、あやしても泣き止まなかたので、
 近くの海岸に湧き出ている泉を探し当て、その水をすくって飲ませると泣き
 止みすやすやと寝入りました。二人は、そこで岩かげの砂の上に腰をおろして
 一息つきました。

  その時、乙樽は、女の自分が一緒であれば到底、本部大主の目をくらます
 ことは出来ないと思い、若按司を潮平大主に預けて、泣く泣く別れて志慶真村
 に帰って、若按司の無事な成長を祈りながら、仇討ちの時節がくるのをまつ
 ことにしました。

  若按司に水を飲ませた泉は、二人が別れた泉なので別り川(わかりがー)
 と呼ばれるようになりました。
  この泉は、石の樋口があるので樋川(ひーじゃー)とも呼ばれ、近年まで
 旱魃(かんばつ)になり、水量が少なくなると付近住民が、志慶真村にきて、
 乙樽の一門である島袋門中に祈願を頼んだと言い、島袋門中から志慶真乙樽
 を襲名した乙樽神以下の神人達がこの泉にきて、御願(うがん)すると不思
 議と元のように水量が増えたと言ことです。

  若按司は、潮平大主に連れられ山田大主のところで、8才まで育てられま
 した。
  しかし、本部大主がこれを知って追手を向けるという噂があったので、
 山田大主に別れを告げ、下人に身をやつして名を岡春と改め、単身、北谷間切
 の砂辺村へ落ち延び、砂辺家という豪農に下男奉公をしながら、仇討ちの機会
 を待っていました。
  
  そうしているうちに、大宜味に北山の旧家臣達が集まって仇討ちの準備を
 整えていると聞いた若按司は、家人達の寝静まるのを待って砂辺村を後に
 しました。
  やがて、大宜味で旧家臣達と落ち合い精兵三千を率いて勘汀那港(かんて
 なこう)に集結して今帰仁城に攻め上がり、本部大主を討ち、今帰仁城を
 取り戻しました。

  その時、志慶真乙樽は城内に駆け付け、十八年ぶりに出会った若按司に仇討
 ちの成就を祝福しました。
  乙樽はこれから数年後に病にたおれ、その時に「私が死んだら、城を正面
 から拝み、魚が泳いでいるのが見える場所に葬ってください。」と願ったので
 志慶真川の下流でよく魚が泳いでいるのが見える丘の中腹に墓をつくり葬ら
 れました。 

  今でも、旧八月十日の今帰仁城内の城折目(ぐすくおりめ)の祭には、
 乙樽の一門の島袋門中の神人(かみんちゅ)が白衣装を着て、二人の供神を
 伴い参加するが、それを志慶真乙樽神と言っているということです。

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